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バビロン捕囚の70年とはいつのことですか?

 「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」はその設立当初から、西暦1914年を預言されていた特別な年であるとし、その根拠としているのが、  このページの表題にあるバビロン捕囚に関連したエルサレム陥落の年です。  
 この点について、一般資料はなんと述べているのでしょうか? エホバの証人の主張は正しいですか?  このページは、客観的かつ公正に判断したいと思われるかたに資料をご紹介しています。

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■バビロン捕囚の期間については諸説ある。

始まり 終わり 期間
605年 (第1次捕囚 ) 536年 (故国への帰還) 70年
597年 (第1次捕囚または第2次捕囚 ) 538年 (故国への帰還) 59年
586年 (第2次捕囚、神殿の破壊) 538年 (故国への帰還) 48年
586年 (第2次捕囚、神殿の破壊) 516年 (神殿の再建) 70年
586年 (神殿の破壊) 515年 (神殿の再建) 71年

◇エルサレムの破壊は:

前586年または前587年

◇ユダヤ人が解放されたのは、キュロスがバビロンを征服した翌年

前538年 (現代と年の始まる時季が異なるので、1年の誤差はありえます)

バビロン捕囚(百科事典の言及)

 バビロン捕囚 バビロンほしゅう Babylonian Captivity

古代イスラエルの民がバビロニア帝国の王ネブカドネザル2世によってとらえられ、パレスティナのユダ王国からバビロニア帝国の首都バビロンにつれさられた事件。前597年最初の強制移住から、前538年のペルシャ王キュロスによる捕囚民の解放までをバビロン捕囚時代とよぶ。

 前597年の第1次捕囚では、イスラエルの上層部、兵士、職人がつれさられた。前586年の第2次捕囚では、ネブカドネザルの兵士がユダ王国の首都エルサレムを破壊し、のこっていたイスラエル人の大半をバビロンにつれていった。だが、重要人物はエジプトへにげ、最下層の農民はパレスティナに残ることをゆるされた。

前582年の第3次捕囚においても、多くのイスラエル人がつれさられ、ニップルやバビロンの近郊をながれるケバル川流域の村に植民した。こうしてイスラエルは、バビロニア帝国の支配下におかれたが、前562年にネブカドネザル2世が死亡し、前539年にペルシャの王キュロスがバビロンを征服すると、帝国は崩壊した。捕囚民は解放され、故国へもどされた。

約半世紀におよぶくるしい捕囚の期間は、イスラエル人を精神的な団結と強い信仰をまもる民族にそだてた。バビロン捕囚時代は、ユダヤ民族が生まれた時期といわれる。「ユダヤ人」という語は、このときからイスラエル人の総称となった。

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 ユダヤ人

■ ネブカドネザルによるエルサレム征服■
 世紀がかわり、ユダ王国がかろうじて独立をたもっている間に、中東地域の力のバランスはアッシリアからエジプトにかたむき、最終的には、カルデア人のもとで勢力をもりかえしてきたバビロニア王国にうつった。しかしユダ王国は、かつてアッシリア人に服従したようにはカルデア人に屈伏しなかった。

そこで、カルデアの支配者ネブカドネザル2世は前597年、ユダの反抗に対してエルサレムを征服した。ユダの貴族、戦士、手工業者たちはバビロンにつれさられ(→ バビロン捕囚)、ネブカドネザルはダビデ王家の王子ゼデキヤを傀儡(かいらい)としてユダの王位につけた。しかしそのゼデキヤも、前588年にカルデア人に対する反乱を主導した。

その2年後の前586年、ネブカドネザルの軍隊はユダを征服し、エルサレムを破壊しつくした。潜在的な反乱の指導者とみなされたすべてのユダ人は、バビロンにおくられた。ほかの集団はエジプトにのがれたが、その際に彼らは、抗議する預言者エレミヤ(→ エレミヤ書)を彼の意志にさからって無理やりエジプトにつれていった。パレスティナにのこされたのは、もっともまずしい小作人だけだった。

バビロン捕囚は、古代イスラエルの政治的独立の終わりを意味した。ユダヤ人は、400年以上もあとになっておこる短期間のユダヤ人国家再興(ハスモン王朝)を唯一の例外として、長い間この政治的独立の喪失という運命をたどることになる。
<中略>

■エルサレムへの帰還■
 前539年に、ペルシャ帝国の創建者キュロス大王がバビロンを征服した。翌年キュロスは、ユダヤ人の解放を許可する勅令を布告した。捕囚民のうち約4万2000人が、パレスティナにむけて出発した。彼らは自分たちの財産すべてと、バビロンに残留する人々が託した贈り物、そして伝承によればキュロス自身の贈り物をもたずさえて、帰還した。故郷は、カルデア人に破壊されたままの廃墟だった。帰還者たちは、これからとりくまねばならない膨大な仕事を思って、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

帰還民たちにひろまった意気消沈は、しかし、2人の宗教的指導者、預言者ハガイ(→ハガイ書)とゼカリヤ(→ ゼカリヤ書)によってふたたび活気をとりもどした。彼らは、かつてエゼキエルがしたように、宗教的生活による救いを約束したのである。ユダヤ人は、ダビデ王家の血をひくゼルバベルの指導のもとに、神殿再建にとりくんだ。こうして前516年に、第2神殿が完成した。ユダヤ教の伝統では、この年がバビロン捕囚の真の終わりとみなされている。すなわちバビロン捕囚は、前586〜前516年の70年間つづいたのである。

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 バビロン捕囚 バビロンほしゅう Babylonian Exile(Captivity)

バビロニア人が,ユダとエルサレムの住民の大多数を捕らえバビロニアに移した事件のこと。〈バビロニア捕囚〉ともいい,第1次捕囚(前597)または第2次捕囚(前586)から,キュロスの神殿再建許可の勅令(前538)または神殿完成(前515)までをイスラエル史における〈バビロン捕囚時代〉という。

アッシリアによる北イスラエル10部族の捕囚(《列王紀》下15)と北イスラエル王国の滅亡(前722)に続く世紀,アッシリアの衰退後,南ユダ王国の国力回復の試みは,ヨシヤ王がメギドで死んで挫折し,代わって即位したその子エホアハズもエジプトに連行されて死に,エジプトは前605年ネブカドネザルによりカルケミシュで敗れた。

ヨシヤの子エホヤキムの治世11年バビロニアがエルサレムを攻囲(《列王紀》下23),その子エホヤキンは即位3ヵ月でバビロニアに降服(同,24),王と母,従者のほか神殿と宮殿の宝物とともに1万人が捕囚された。残った者は貧しい者のみであった(第1次捕囚)。

さらにゼデキヤ王の11年エルサレムは陥落(《列王紀》下25),王と住民の多くは捕らえられて移され(第2次捕囚),残った貧民はブドウ栽培者,農夫となった。なお〈教皇のバビロン捕囚〉と呼ばれる事件は〈アビニョン捕囚〉の項を参照。
〈 西村 俊昭 〉

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 バビロン捕囚Babylonian Exile

古代イスラエル民族のユダ王国が新バビロニア王国によって征服された際、多くの住民がバビロンへ強制移住させられた事件。紀元前597年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世の攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行された。その後、ユダは半独立国の地位にとどまり、王位はゼデキアに継承されたが、彼が反バビロニア派に動かされ、反乱に加担したため、ネブカドネザル2世はふたたびエルサレムを略奪し、建物を焼き、砦(とりで)を撤去し、住民の大部分を捕囚の身とした(前586)。

逃亡を図ったゼデキアはエリコで捕らえられ、目の前で家族全員が虐殺され、自らは盲人とされ、足械(あしかせ)をかけられてバビロンへ連行されたという(『旧約聖書』列王紀)。その後、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キロス2世が前538年に発した「民族解放令」によって帰還を許された。

バビロン捕囚はイスラエル人にとって大きな民族的苦難であったが、この間の精神的労苦はかえって民族の一致を強め、信仰を純化する端緒となった。また、それ以前に書かれてきた『旧約聖書』の律法書、歴史書、預言書、詩などが集成された時期としても重要な意義をもっている。バビロンから帰還後、国家建設はならなかったが、エルサレムに再建した神殿を中心としたユダヤ教団が成立し、彼らはユダヤ人とよばれるようになった。
〈漆原隆一〉

(C)小学館 スーパー・ニッポニカ2001

百科事典による、聖書への言及:その他

 ネブカドネザル[2世] Nebuchadnezzar II

新バビロニアの王。在位,前604‐前562年。正しくはナブー・クドゥリ・ウスル Nabu‐kudurri‐uour。父王ナボポラッサルの晩年には皇太子としてバビロン軍を率い,たびたび遠征に出た。父王の後を継いで王となった後も,メディアとの同盟関係のおかげで東方の守りを心配することなく,ほぼ毎年シリア,パレスティナ方面に遠征を重ねた。その主たる目的はバビロン軍の力の示威と朝貢国からの貢物の取立てであった。

43年に及ぶその治世の中で比較的知られているのは最初の10年ほどで,前604年のアシュケロンの破壊,前601年の対エジプト戦での敗北,前598年のエルサレム攻囲(このときユダ王エホヤキンほかを捕囚として連れ去り,代りにゼデキヤを王に据えた。《列王紀》下24:10〜17)などが特に注目される。

その後テュロスの攻囲,小アジアにおけるメディアとリュディアの国境争いの調停などあるが,とりわけ前586年のエルサレム破壊といわゆるバビロン捕囚を挙げなければならない(《列王紀》下25:1〜22)。このような数次の遠征により得た財宝で諸神殿の再建,首都バビロンの建設,王宮の造営などを行った。こうして彼の治世は長いバビロンの歴史の中でも最も栄えた時期となり,その支配領域もメソポタミアを中心に東はアラプハ,西はガザ,南東はスーサ,南はペルシア湾上の島々にまで及んだ。
中田一郎

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 ネブカドネザル(2世) Nabu-kudurri-usur U

(?―前562)新バビロニア王国の王(在位前605〜前562)。彼は紀元前605年、皇太子として軍を率い、カルケミシュの戦いでエジプトを大破した。その直後、新バビロニアの創始者である父王ナボポラサルの意志を継いで即位したのだが、その後の彼の軍事行動について彼自身はなんの記録も残していない。

ただし、『旧約聖書』とギリシア人による記録から、前598年にユダ王国を服属せしめ、さらに前587年にはなおも反抗するユダを攻撃し、エルサレムを陥落させて多くの民を捕囚に拉致(らち)したこと(バビロン捕囚)、またそれと並んで、フェニキア人の町ティルス(ツロ)を長期にわたる包囲のすえに征服したことが知られている。

しかし彼は全体として軍事による領土拡張政策はとらず、国の防衛を確保したうえで(たとえばティグリス川からユーフラテス川に至る対メディア防壁)、むしろ文化振興政策を促進させた。たとえば首都バビロンに、91メートルにも及ぶ塔を中心とした壮大なマルドゥク(バビロンの主神)神殿を建立し、通りは釉薬(ゆうやく)をかけた焼成れんがが種々に飾られていた。また諸都市を整備し、灌漑(かんがい)設備を整えて農業生産性を高め、種々の交易を促進させ、バビロニアを当時のオリエント世界随一の豊かな国にした。

彼の個人的ひととなりについて多くは知られていない。しかし、自らの名声の宣揚よりも神々の力の賛美を心がけた彼が宗教心あふれる王であったことは疑いない。なお、『旧約聖書』「ダニエル書」に描かれるネブカドネザルの姿には、歴史的にみれば、バビロニア最後の王ナボニドゥスとの混同がある。
→バビロン〈月本昭男〉

(C)小学館 スーパー・ニッポニカ2001

 ナボポラッサル Nabopolassar - 

新バビロニアの王。在位,前625‐前605年。正確にはナブー・アプラ・ウスルNabu‐apla‐usur。カルデア人ヤキン族の出身。アッシリアの宗主権下で海国の首長の地位にあったが,同帝国最後の英王アッシュールバニパルとバビロンにおけるその傀儡(かいらい)であったカンダラーヌ Kandalanuの死後1年を経てバビロンの王位に就き,新バビロニア王朝(カルデア王朝)を建設した。

即位後の10年近くはアッシリアの執拗な反撃に耐えて,もっぱら政権の維持・確立に努めたが,治世10年ころからは攻勢に転じ,毎年のごとくティグリス川沿いあるいはユーフラテス川沿いにアッシリア遠征を行った。メディアがバビロンと時を同じくしてアッシリア侵攻を開始,前614年にはアッシュールの町を陥落させた。

この年ナボポラッサルはメディア王キュアクサレスと同盟を結び,皇太子ネブカドネザル(後のネブカドネザル2世)とキュアクサレスの娘アミティスとの結婚によりこれをいっそう強化した。前612年にメディア(ウンマンマンダ)と共同でアッシリアの首都ニネベを陥落させた。

アッシリア帝国の残党はハランに逃亡し,アッシュールウバリト2世を王に立てて政権を維持したため,この後のバビロン軍の遠征はユーフラテス川流域に集中した。この遠征は必然的にシリア・パレスティナをその勢力範囲とするエジプトとの衝突を引き起こすことになった。

なかでも治世最後の年にその皇太子ネブカドネザルが率いる軍とエジプト軍の間で戦われたカルケミシュの戦(前605)は有名で,ネコ2世の率いるエジプト軍は大敗を喫した。旧約聖書《列王紀》下24章7節はこの戦いに言及しているものと考えられる。こうしてナボポラッサルは次王ネブカドネザル2世治下の繁栄の基礎を築いた。

中田 一郎

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参考リンク

「世の終わり」は1914年に始まったか

ものみの塔協会、1914年の年代計算を放棄する方向へ

(ダニエル書の「七つの時」の預言と1914年との関連は、すでに否定しているようです)


(c)sumire 作成日:2004年  改訂:2005-10-31 再改定:2011-10-14